清水家の歩み

京焼と五条坂の変遷

京焼とは、京都で焼かれたやきものの総称。もともと平安時代以来やきもの生産が行われているが、現在「京焼」といった場合には、江戸時代初頭以来、京都市街周辺でつくられた陶磁器のことを指す。江戸時代を通じて、中国や朝鮮半島の陶器・瀬戸焼・信楽焼の写し、色絵陶器、赤絵・呉須・交趾などの磁器といった様々なタイプがつくられた。明治期には絢爛豪華な輸出用陶磁器、昭和に入ると作家がつくる陶芸作品など、時代に応じて変化し続けるのが特徴の一つである。

そして五条坂は、江戸時代、清水寺門前で茶道具をはじめとする陶器生産の窯としてはじまった。1800年ごろに二代高橋道八、和気亀亭、水越与三兵衛らの尽力により、磁器の生産が本格的に行われるようになる。当時、色絵陶器をつくる粟田口が京焼の中心地として栄えていたのに対し、新しく磁器をつくる地域として台頭したのである。その後、粟田口をしのぐ生産地として発展し、特に大正期以降は、清水六兵衛、高橋道八、三浦竹泉、真清水蔵六、清風与平など多くの作家が活躍し、京都のやきものの中心地として栄えた。

清水卯一の陶工としての道

1926年、清水卯一は五条坂の陶器卸問屋、清水卯之助商店の長男として誕生。当時、陶工は分業体制で、成形するロクロ師、絵付け師、窯焚き師などの専門職人がおり、その職人を束ねてたのが卸売問屋であった。親は卯一が小学生の頃から、ロクロ師に成ることを夢見ているのに気づき、商業学校に入れたが、学校へは行かず近所のロクロ師の家に行っていた。困った親は、伝手を頼って石黒宗磨先生のもとで弟子入りさせることにした。卯一が14歳のときのことである。

終戦の1945年、卯一は五条坂の自宅に仕事場を設け、陶工としての道を歩みだした。五条坂には2代目、3代目の陶芸家が多く、駆け出しでキャリアのない卯一は肩身の狭い思いもしたようである。1947年には、長男・保孝が誕生。また同年、宇野三吾らと四耕会を結成。終戦後の陶芸に新たな価値を作るべく作品を生み出していった。

1949年、まだ戦後まもなく人々は食べることに精いっぱいであった時代。温かみのある陶器を見て心を癒してほしいと思った卯一は、心やすまる器づくりに力を注いだ。そんな精神から生まれた釉薬が、柚子肌釉だった。以降、柿釉・鉄釉の作品で受賞を重ね、国内外からの評価を高めていった。

蓬莱窯の開窯と、保孝の陶芸

1970年、土と釉薬にこだわる卯一は滋賀県滋賀郡志賀町の蓬莱山麓に開窯し、五条坂より移り住んだ。湖西地方から湖北まで土や石を探し求め、出土した土を自ら製錬した。磁土も同じように自分で造る。石もスタンパーで粉砕して振るいにかけ釉薬として用いた。土から釉薬まで全て蓬莱で取れた原料を用いた作品には、卯一は「蓬莱何々」と好んで使用している。

1971年、保孝が卯一に師事。陶芸家としての道を歩き出した。卯一より「自分の特徴を出す何かを」と言われた保孝は、幼少の頃より飼育し、身近な存在であった亀を文様に「亀遊文」として自らの作品に使っている。
1979年、志郎が誕生。

卯一、重要無形文化財保持者(人間国宝)に

1955年、第2回日本伝統工芸展に初出品し、2003年まで連続出品を続けた。その間、日本工芸会・副理事長、陶芸部会長の要職を務めた。

1985年、卯一は鉄釉陶器により重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受けた。1986年には紫綬褒章を受章。

その後も蓬莱にて作品を作り続け、2002年には孫である志郎が卯一のもとで制作をはじめた。

晩年には、お気に入りであった蓬莱の仕事場から見る日の出を見立て、好んで赤色の釉薬を用いた。
清水卯一、2004年2月18日 逝去。77歳。
最期まで作陶意欲がなくなることはなかった。

清水家のいまとこれから

昭和初期から商家として続いていた店を、2009年に保孝がギャラリーとしてリニューアルオープン。親子3代の作品を並べ、気軽に見て、触れられるギャラリーにしている。
2011年には京都府指定無形文化財保持者に認定される。そして2015年に作陶45周年を迎えた保孝。保孝にとって、京焼とは「自分流」である。そうでありながら、伝統的なもの、伝えていくべきものを残せるよう陶器と向き合い続けている。

2005年に父・保孝のもとで制作をはじめた志郎は、2013年に松ヶ崎に独立。炭窯を自作し、自ら掘った土で陶器を作っている。卯一や保孝とは異なるものを追いつつも、土にこだわるのは清水家のDNAともいえる。土を求めて各地を巡り、掘っているときの感覚を大事にしながら、歩いていた大地を器に変えている。

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