
お名前 | 横谷 賢一郎 |
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現在のご職業など | 学芸員・日本美術史 |
私は、茶の湯の所作にはめっぽう暗いが、茶道具は好きなタチの人間である。
気に入った道具を手に入れると、その道具を本尊にして、周囲を固める眷属たちを安置するかのように、道具立てを構想してしまう。
むろん、流派や社中の決まりごとなどお構いなしの無手勝流である。あくまでも独善的に、個人の世界観の表現として、茶の湯の様式を無断借用しているにすぎない。
ただ、道具には、それなりの強いこだわりがある。完全に上から目線で道具の実力を吟味し、迎え入れている。とりわけ、茶碗については、いわずもがなである。
現代の青年作家さんは、本当に上手い。
古陶磁の写しやアレンジ物も、巧みに釉薬を調製して釉調を表し、景色を理解して、味わいのある作陶をみせている方が多い。
しかし、それでもなお、口縁や胴、腰のあたりまでの作行きは素晴らしくとも、ただ高台の造りが残念な出来のため、一目惚れしかけていた気持ちが雲散霧消したり、口造りに力が入り過ぎていて、やはり惹かれていた気持ちが半減したり、あまりにも真面目で丁寧な仕事すぎて遊びがなかったり、などなど、最後のツメの部分が残念な仕事を、私は沢山みてきた。
では、清水志郎氏の場合はというと、逆に、ツメの部分が、実に自然体なのだ。
その上に、全体像や肌の景色が、本質感にあふれているのだ。
作陶における器用さや小奇麗さは、清潔で整理整頓された日常空間には有効だろうが、茶の湯で体現すべきは、本質的表現である。
日本のやきものが、如何にあるべきか、その本質を、清水志郎氏は、理屈ではなく、身を以て、追い求めていると、私は勝手に、彼の仕事を見ながら思っている。
むろん、彼は茶道具専門の作家ではない。
さらに、彼の仕事は、京焼でもない。
ただ、本質的な仕事を目指しているからこそ、魅力的な道具が、彼の手から生まれてくるものと、私は理解している。
今回の個展も、「なんでこんなに分かってはるんやろう」と思ってしまった。
そして、すでに何客も収蔵してしまっているのに、ついつい、また欲しくなってしまうのである。